東日本大震災による在宅被災者についての院内学習会に参加した。
アメリカから帰ってきたのが2011年2月末日。
東日本大震災が起ったのが2011年3月11日。
どこのレストランにも属していなかった、という身軽さも手伝って、東北の為に何かしたい、何かしなければ、という思いが日に日に強くなって行ったのを覚えている。
4月に入ってようやく道路がだいたい繋がり、一般人が通行出来るようになったのをきっかけに、CONVEYとして知人達と炊き出しに行った。
それから何度も通うようになり、しまいには参加したボランティアチームのオーナーが経営する居酒屋に泊まり込んだ。
営業を手伝いながら、子供達への給食支援をする為だった。
初めて行った学校の給食後の先生の涙が忘れられない。
震災が起きてから1ヶ月以上経つのに、今日初めて温かいものと生の野菜を食べた、と言うのだ。
それはその先生自身がうれしかったのではなく、子供達にようやくまともな食事を食べさせる事が出来た、という安堵の涙だったのだ。
それから約3ヶ月、他の企業やグループのバックアップ体制が整うまで平日はほぼ毎日続けた。
いま、あの子達はどうしているかと思う事は良くある。
今日の学習会の題にもある在宅避難者、在宅被災者と言う言葉をご存知だろうか?
大まかに言うと、被害のあった家で避難生活を続けている方達だ。
1階部分が壊滅していて2階に住んでいる方達、家に外傷が無くてもライフラインの停止している家に住んでいる方達も多い。
その生活は快適とは言えないのは容易に想像出来る。
当時は、被災者と認められず、物資も届かない、と言う状態が続いていた。
そんな中、私たちが参加したチームは在宅避難者、在宅被災者に焦点をあてて支援活動をしていた。
今回の勉強会ではそのチームの代表が現状と膨大なデータを元にした分析を報告していた。
今でも仮設にすら入れない家族、道路が通ると言われて修繕を諦めたまま4年がたった家に住む人、など。
言い出せばきりがない、問題は山積みだ。
だが光も射し始めている。在宅避難者を含む支援予算の大幅な増額や心の復興事業への予算の確保などだ。
そして何より、今日参加していた議員さんの危機感だ。
訴え続けたボランティアチーム代表の思いがようやく伝わって来ているのだ。
アメリカから帰ってきたのが2011年2月末日。
東日本大震災が起ったのが2011年3月11日。
どこのレストランにも属していなかった、という身軽さも手伝って、東北の為に何かしたい、何かしなければ、という思いが日に日に強くなって行ったのを覚えている。
4月に入ってようやく道路がだいたい繋がり、一般人が通行出来るようになったのをきっかけに、CONVEYとして知人達と炊き出しに行った。
それから何度も通うようになり、しまいには参加したボランティアチームのオーナーが経営する居酒屋に泊まり込んだ。
営業を手伝いながら、子供達への給食支援をする為だった。
初めて行った学校の給食後の先生の涙が忘れられない。
震災が起きてから1ヶ月以上経つのに、今日初めて温かいものと生の野菜を食べた、と言うのだ。
それはその先生自身がうれしかったのではなく、子供達にようやくまともな食事を食べさせる事が出来た、という安堵の涙だったのだ。
それから約3ヶ月、他の企業やグループのバックアップ体制が整うまで平日はほぼ毎日続けた。
いま、あの子達はどうしているかと思う事は良くある。
今日の学習会の題にもある在宅避難者、在宅被災者と言う言葉をご存知だろうか?
大まかに言うと、被害のあった家で避難生活を続けている方達だ。
1階部分が壊滅していて2階に住んでいる方達、家に外傷が無くてもライフラインの停止している家に住んでいる方達も多い。
その生活は快適とは言えないのは容易に想像出来る。
当時は、被災者と認められず、物資も届かない、と言う状態が続いていた。
そんな中、私たちが参加したチームは在宅避難者、在宅被災者に焦点をあてて支援活動をしていた。
今回の勉強会ではそのチームの代表が現状と膨大なデータを元にした分析を報告していた。
今でも仮設にすら入れない家族、道路が通ると言われて修繕を諦めたまま4年がたった家に住む人、など。
言い出せばきりがない、問題は山積みだ。
だが光も射し始めている。在宅避難者を含む支援予算の大幅な増額や心の復興事業への予算の確保などだ。
そして何より、今日参加していた議員さんの危機感だ。
訴え続けたボランティアチーム代表の思いがようやく伝わって来ているのだ。